父殺しの原体験の結末。 Fate/Zero 第24話 『最後の令呪』 のレビューです。
切嗣は「多数を救うためならば少数を殺す」というポリシーに凝り固まっていて、それは異常だと19話のレビューで書きました。 そして今回、彼はその報いを受けた形です。 この結末しか無かったのでしょう。
世の中の出来事は、白か黒かで決着が付くことばかりではありません。 単純にルール通りにやればいいのであれば、何も考えなくて済むので楽ですが、ルールにそのまま当てはまらないことは起こります。 時事ネタで言えば、生活保護について、「生活に困っていなくても、制度的に貰えるのであれば貰っても問題ない」という意見と、「不正受給が多いから、生活保護なんて廃止するべきだ」という両極端な意見があり、それはどちらも正しないはずです。 正しい選択は、その中間のどこかにあるでしょう。
企業で仕事をしていても、そのような「ルール通りには決められない」判断を迫られることは多くあり、そういう時に判断を下すために、会社の偉い人は存在しています。 ルール通りに常にやればいいならば、偉い人は必要無いのです。 政治家もそうですね。
かつて、日航機がダッカでハイジャックされて人質を取られたとき、当時の福田赳夫首相は「一人の生命は地球よりも重い」と言って、テロリストの要求に屈しました。 ルールを破って超法規的判断をしたわけで、それ自体はアリですが、常識的に考えて、一人の生命よりは地球のほうが重いでしょう。
切嗣の「多数を救うために少数を殺す」というポリシーは、福田首相のポリシーの対極にあります。 それが正しい選択の場合もあるでしょうが、機械的に、何も考えずにそのルールを適用するのは、決して正しくないはずです。 「聖杯の意志」が突き付けたように、少数をどんどん殺していくと、結局は生かした数よりも殺した数の方が多かった、ということにもなりかねません。 あのたとえ話は、なかなか的確でした。 ではどうするのが正しいかと言えば、その都度、どうするのが正しいのか、考え抜かなければならないのです。 それが人間というものです。
でも切嗣は、そのルールを厳格に適用する生き方しかありませんでした。 なぜなら、そうでないと、父親を殺したことを正当化できないからです。 彼は「多くを救うため」だけではなく、いくらかの私怨も込みで父親を殺したと僕は考えます。 でもそれを認めたくない切嗣は、自らを正当化するために、「多くを救うために少数を殺す」ことをやめられないのでした。 それによって母親代わりだったナタリアを殺したし、今回は妻子も殺すことになりました。 父殺しの原体験の呪縛です。
この作品は『Fate/stay night』の前日談なので、この聖杯戦争では誰も聖杯を勝ち取らなかったという結末は、決まっていました。 とはいえ、主人公である切嗣やセイバーは勝ち残るのでしょうから、どうやって「勝ったけれど聖杯は得られなかった」という結末にするのかなと思っていたのですが、なるほどという展開ですね。 切嗣が父親を殺した時点で、ハッピーエンドが無いことは確定していたのでした。
切嗣には誰もいなくなってしまって、あとはセイバーだけですが、セイバーと彼との仲は元から冷め切っていました。 最終回で二人の関係がどうなるのかに注目していますし、いくらかの救いが得られると思いたいところです。
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確か切嗣は「心と行動が一致しない」みたいな性質を先天的に所持している、という話だったと記憶しています。
となると、私怨というよりは義務ないし責任感から何の感情も感慨もなく殺害したという線の方が強いのではないでしょうか。
個人的には、「知りもしない方法を、願望を願いにすることはできない」というシーンがありましたがその言葉が印象的でした。願いを具体的に想像することができなければそれは願いとは言わないんですね。切嗣の場合がまさにそうでした。
それにしてもついに来週で最終回ですか。
ハイクオリティな戦闘シーンなどがもう見れないと思うとさみしくなりますね。
シャーレイは彼の父親を慕っていたために、あなってしまったわけで、つまり恋敵に殺されたとも言えます。
その恨みによる衝動的な殺人が、あの父殺しの本質だと思うのでした。
でも彼の中では、多数を救うために少数を殺したのだ、ということで自分を納得させています。
次回は最終回なので寂しさもありますが、この重苦しい物語から解放されるという想いも少しあったりします。