どこまでも両極端で、でも似たもの同士の二人。 Fate/Zero 第16話 『栄誉の果て』 のレビューです。
セイバーと切嗣はずっとギクシャクしていて、いつになったら打ち解けるのだろうと思っていたのですが、逆に決定的に対立することになりました。 切嗣の、目的のために手段を選ばないダーティーなやり方と、セイバーが奉ずる騎士道は対極にあるからです。
でも対極でありながら、双方の言い分にはそれぞれ説得力があります。 僕はそもそも、セイバーの高潔さは行き過ぎだと思っていました。 騎士道とか言っても殺し合っているには違いなく、左手を封印して勝ったからといって、殺し合いを美化して自己満足しているに過ぎないんじゃないかと。
スポーツなら、それもいいでしょう。 ロサンゼルス・オリンピックで、山下泰裕は柔道無差別級での金メダルは確実だと思われていましたが、準決勝で右足を捻挫してしまいます。 山下は足を引きずって決勝に臨み、誰もが負けを確信しましたが、対戦相手のモハメド・ラシュワンは怪我をした右足を攻めず、結果として山下が勝ったのでした。 このフェアプレーは大いに話題になり、ラシュワンは国際フェアプレー賞を受賞して、母国エジプトでもヒーローになったそうです。
スポーツならば、勝利よりもフェアプレーが重要なことはありますが、戦争は負けると多くを失うので、王や指揮官は、相手の弱みを容赦なく攻めてでも勝つ責任があります。 切嗣は戦いの恐ろしさを知っていて、今回の戦いにはアイリスフィールの命もかかっているので、負けることを臆病なほどに恐れています。 だから彼は勝つためには何でもやる覚悟なのでしょう。
セイバーは、最初は切嗣を罵倒して、軽蔑の目で見ていましたが、切嗣の激白を聞くうちに、その強い思いに畏怖さえ覚えたようです。 でもセイバーは言います。「悪を憎んで悪を成すなら、その怒りと憎しみは、また新たな戦いを呼ぶだろう」と。
いわゆる「憎しみの連鎖」ですね。 戦って勝ったとしても、その勝利に正義が無ければ、負けた方や第三者の憎しみを呼び、それがまた新たな戦いを呼ぶでしょう。 セイバーが理想とする、騎士としての誇りを掲げたスポーツのような戦争であれば、負けても互いにノーサイドということで納得して、「憎しみの連鎖」を抑えられるかもしれません。 この点では、確かにセイバーの言うことにも理があります。
でも切嗣は、どんなに憎まれても構わないようです。 聖杯の力で連鎖を断ち切って、これが人類最後の流血になるからと。 切嗣はガチガチに現実的なように見えて、実は誰よりも夢想的な正義漢なのでしょう。 このギャップのあるキャラクタ造形は見事だと思えます。
セイバーと切嗣は決裂したかのように見えましたが、本音で語り合ったことで、むしろ前よりも分かり合えたようです。 正義と平和を夢見ているという点で、彼らは似たもの同士なのだから。 両極端なのに似たもの同士という、これ以上ないコンビなのかもしれません。 でも本当に打ち解けるには、まだ距離はあるなのでしょう。
ランサーが退場したのは残念ですが、いかにも最初の方にやられそうなキャラではありました。 善人すぎて長生きできませんでしたが、最後まで高潔な騎士であろうとし、最後まで報われなかった生き様には心を打たれます。 架空のキャラクタにこういうことを言うのも変ですが、冥福を祈らずにはいられません。
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スポーツではないからこそこれでいいのだと思います。
これは英雄の戦い。
英雄が戦うのは常に世界。
相手など見えていないんです。
相手(戦い)の先にあるものしか見えていない
アルトリアは理想とする騎士と戦っていた。
ディルムットは騎士(自分達)に憧れる少女の瞳に応え騎士であろうとすることでただの「殺し合い」と戦っていた。
本当の戦いは、スポーツでもなければ、ただの人殺しとも違う
自分の作り出したルール、それに従わぬ世界と戦う
その戦いに命に価値などない
自分も含めて。
切嗣は英雄を認めていないといいながら英雄の戦いをしている
彼ははじめから何とも戦っていない、戦わなければならないものすら見えていない人間
ということだったのかなと思いました
>冥福を祈らずにはいられません
そんなものは望んでいないと思います。
彼はアルトリアの中でアルトリアの騎士の指針として戦い続ける道を選んだのだと思います。
時に背中を押し、時に諌め、茨の道を歩くアルトリアと共に生きることを選んだのだと思います。
いつかアルトリアが真に強くなれる時まで、理想という呪いから守り続ける、それが彼が見つけた戦いの場所であり祈りだったのだと思います
たとえ、それがディルムットという呪いになることだとしても…
まあ、どちらも極端なので結局上手くいかないとは思うのですが
個人的には切嗣の方に肩入れしたいかな?
セイバーやランサーの主張は殺し合いに一定のルールを設けることで憎しみの連鎖に歯止めをかける、という意味では現実的な面もあります
しかし、この二人は自分の不利はそのまま主や彼らの身の回りの人達の破滅に繋がることをすぐ忘れます
時に主の安全そっちのけで騎士道を優先するので、関係ない立場から見てる分には好ましいけど、味方としてはご遠慮願いたいというか
円卓の騎士の内輪揉めが絶えなかったのは、アーサー王のそういうところにあるわけですし
「英雄同士の戦い」というのは、戦争というよりはスポーツに近いのでしょう。恨みっこなしで、負けてもノーサイドという。
切嗣の戦いは、ある意味英雄的ですが、周囲の人は彼を英雄とは認めないと思われます。
ランサーは、呪い続けてやると言っていたので、確かに冥福を祈られたくは無いでしょうね。でも彼も切嗣のことをもっと知れば、あそこまで無念の中で死ななくても良かっただろうにと思えます。
■村上さんコメントありがとうございます!
セイバーは、当初は「貴様」と呼び捨て、外道呼ばわりでしたが、切嗣の激白を聞くにつれ、「あなたの怒りは、まぎれも無く正義を求めたものが抱くものだ」と言いました。正義を求めていながらこうなってしまった彼に、憐れみを抱きつつも、その凄みに感じるところがあったように見えました。
■名無しさん さんコメントありがとうございます!
僕もそうですね。どちらかといえば切嗣派です。英雄を賛美するのは、「お国のために」とか「靖国で会おう」とか言って、若者を戦争に駆り立てた思想と似たものを感じます。切嗣も近いことを言ってました。
セイバーとランサーの英雄同士の戦いに心が躍るのも確かで、人間は生理的にそういうのが好きなのでしょう。だからこそ怖いのですが。
■匿名さんコメントありがとうございます!
そうですね。「原作はこうだった」というコメントも参考になります。でもおっしゃる通り、原作がすべてだとは思いません。アニメなりの解釈があっていいと思うので、原作と違うからといって自分の解釈を変えれるつもりは無いですね。
この作品は原作を知らないのですが、原作を知っている作品で、アニメは解釈が違うなと思うものはよくありますし。例えば「涼宮ハルヒの消失」とかですね。