『王の力』は目的なのか手段なのか。 ギルティクラウン 第21話 『羽化:emergence』 のレビューです。
今回良かったのは、かなり絶望的な作戦にも関わらず、葬儀社の連中には悲壮感はなく、「いっちょやってやるか」と明るく不敵だったことですね。 アマチュアの集団だった高校生組織とは違って、プロフェッショナルなカッコよさがあり、シリーズ当初のノリを思い出しました。
特にツグミが生き生きしていましたが、彼女は地道に情報を集めるような仕事よりも、集められた情報の海を泳ぎながらハッキングの隙を見つけたらり、作戦情報を分析して前線や指揮官に伝える仕事で本領を発揮します。 葬儀社のスタッフや春夏ママのバックアップを得たことで、水を得た魚だったのでした。 このノリもまた、懐かしいです。
ユウがラスボスかと思っていたのですが、集はユウと正面から戦って勝ちました。 どうやって倒したのか、画面からはよくわからなかったのですが、モブキャラから取り出した愛の無いボイドよりも、集が友達の名前を呼びながら使うボイドのほうが強力だったということなのでしょう。
涯はユウとはちがって、涯に心酔した取り巻き(亞里沙など)がいて、その強力なボイドを使うことができるので、そのハンデは無いのでしょう。 また、覚醒した真名の力も使うことができます。 同じ体に入った真名といのりの、どちらが勝つかが、決戦の趨勢を決めるのでしょうか。
いのりは歌によって、アポカリプスウィルスに侵された人を癒す力がありましたが、真名は逆に、アポカリプスウィルスを暴走させ、全人類を絶滅させる力があるようです。 対称的ですが、本来は表裏一体で、同じ力が別方向に働くのでしょう。
いのりは時々、意識を失って凶暴になることがありましたが、あれは真名の意識が表に出ていると考えられます。 いのりと真名は、どちらかしか存在できないという排他的なものではなく、元から同居しているのではないでしょうか。 だとしたら、集も涯も満足する円満な解決・・・にはならないかな。
「いのり」と「真名」という名前は、意味深ではあります。 旧約聖書の出エジプト記によると、飢えた民を率いていたモーセが、神にいのりを捧げると、天からマナ(神の食物)が降り注いだのでした。 いのりの結果、マナがあるわけです。 これを素直に解釈すると、真名が完成形ということになりますか。
集は、あくまでいのりを助けることが第一義で、王になることには興味が無いと思っていたのですが、今の彼はメシアのように力を分け与えて、ゆきずりの知らない人であっても、一人でも多くの人を救おうとしています。 つまり彼には、王になって多くの人を救うという意志が芽生えたようです。 学園で力の使い方を間違えた末に、この境地に到達したのでしょう。
一方で、涯はそもそも、王になることは目的ではなく手段であり、真名を得ることが目的なので、王になって人類を滅ぼすことが本位ではないはずです。 このモチベーションの違いが、どう影響してくるのか。
「いのりを糧に真名が復活する。失われた、俺たちのイブが」 と涯は言いましたが、「俺たちの」ってどういうことなんでしょうね。 確かに集の姉でもあるけれど、イブに対するアダムは一人であるべきで、「俺たちのイブ」というのは変です。 実際のところ涯は、真名と涯と集と、三人で暮らした頃が彼の一番幸せな記憶で、それを取り戻そうとしているのかもしれません。
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