「生存戦略」をテーマに描き切った最終回。 輪るピングドラム 第24話 『愛してる』 のレビューです。
この作品は一見難解なのですが、それは、どのシーンが現実で、どのシーンが象徴(空想)なのか分かりにくかったり、「こどもブロイラー」や「ピングフォース」といった重要そうな設定について、ほとんど説明されないことから来ています。
でも、それらのディティールはあまり突き詰めて理解する必要は無いのでしょう。 多分に感覚的で、理詰めで作られた作品ではないからです。 20話のレビューで、それを「創発的」だと書きました。 制作者がほとばしる表現力をぶつけたものを、そのまま感じればいいはずです。
それらのディティールや象徴を取り去れば、作品の筋は実は分かりやすくて、つまりは「2つの生存戦略」の戦いでした。 2つの生存戦略とは、「眞悧の生存戦略」と「桃果の生存戦略」です。
眞悧(ピンク髪の男)の生存戦略は、いわゆる『利己的遺伝子』の考え方ですね。生物とは遺伝子の乗り物であり、遺伝子が自分のコピーを残す確率を最大化するための行動をする、という『生存戦略』です。 「生命の世界は、利己的なルールが関与している。そこに人の善悪は関与できない」 と眞悧は言っていました。
確かにこれで、生物の行動の多くは説明できて、その説明によく使われるのがペンギンだったりします。 ペンギンは真っ先に海に飛び込むことはせず、他のペンギンが飛び込んで、海に危険な外敵がいないかどうかを確かめようとします。 真っ先に飛び込むようなペンギンは、勇気があるかもしれないけれど、死ぬ確率が高く、子孫が残せない(遺伝子が生き残れない)のです。
ピングフォースは、そんな利己的なペンギンを象徴しているのでしょう。 自分が生き残れるならば何をしてもよいという、生存戦略の象徴です。 今の世の中は、人々が箱の中に閉じこもって孤独であり、それは人間としての「社会性」と、生物としての「生存戦略」の板挟みになって動けないからではないか。 ならば、社会性なんてものをブチ壊して、利己的な生物として生きるのが本来の姿ではないか、というのが、ピングフォースや眞悧の思想だと想像します。
その対極にあるのが、「桃果の生存戦略」です。 この作品のファンタジー的な要素は、彼女に集約していますね。 桃果が日記を持っていて、「運命の乗り換え」の呪文を知っていて、眞悧をこの世ならぬ存在にして、また「プリンセス・オブ・クリスタル」の帽子を作ったのです。
なぜ桃果にそんな力があるのかは不明ですが、そういうものだとします。 神様か天使なのかもしれません。 ともあれ、桃果はプリンセス・オブ・クリスタルを通して、冠葉と晶馬に「ピングドラムを探すのだ」と命じます。それが生存戦略だと。
そしてピングドラムとは、かつて冠葉と晶馬が分け与え、そして陽毬にも与えた『リンゴ』でした。 宮沢賢治の作品において、リンゴは生命の象徴です。 色・形・大きさが心臓と似ているからですね。 この場合のリンゴも、リンゴそのものではない象徴でしょうけれど、ともあれ、彼らは赤の他人だったのですが、『リンゴ』を分け合って兄弟となることで、共に生き延びたのでした。
もし彼らが「利己的遺伝子」の生存戦略で行動していたならば、少なくとも晶馬と陽毬は生きていなかったでしょう。 二人の助けが無かったことで、冠葉も生きられなかったかもしれません。 彼らは利己的ではない、別の生存戦略で生き残ったのです。
「つまり、リンゴは愛による死を選択したものへのご褒美でもあるんだよ」と、ラストで子供の冠葉(生まれ変わり?)が言っていましたが、まさに「愛による死」という表現が、この場合の生存戦略を説明するのに適切でしょう。 利己的ではなく、自分が生きる確率を減らしてでも、他人が生きる確率を増やし、全体として生き残る確率を増やそうとする生存戦略です。 この原動力となるのは、家族愛、同胞愛、愛国心などの「愛」であるはずです。
眞悧による「利己的な生存戦略」に対抗するため、桃果はプリンセス・オブ・クリスタルを通じて「愛の生存戦略」を見出すよう高倉兄弟を導いて、そして彼らはピングドラムにたどり着いたのでした。 冠葉は眞悧にそそのかされ、陽毬を助けるには利己的になるしかないと考えていましたが、最後の最後で、自分たちが「愛の生存戦略」で生かされたことに気づき、「利己的な生存戦略」の間違いを悟ったのです。
苹果もまた、 陽毬と晶馬を助けたいと思い、またそれが桃果の遺志だと悟り、自分を犠牲にしてでも他人を生かそうとします。 それによって、「愛の生存戦略」が「利己的な生存戦略」に打ち勝ち、つまりは桃果が眞悧に勝ったのでした。
代償として、冠葉と晶馬は世界から消えてしまいますが、10年前に戻って生まれ変わることができたようで、これは桃果からの「ご褒美」なのかもしれません。 全体にハッピーエンドで、とても後味が良いですし、前向きなメッセージがありました。
現代の僕たちは、生きるか死ぬかという瀬戸際にいるわけではありませんが、人々は孤独であり、多くの社会的な問題に直面しています。 でもそれらは、自分の一部を殺して他人を生かすことによって利益を最大化する、「愛の生存戦略」によって解決できる問題ではないか。 そんなメッセージが込められているように思うのです。
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芸術性と大衆性を兼備したっていうのはこのような作品のことを言うんでしょうね。人を選ぶ作品なのは確かですが演出者の個性がだんだん見づらくなる今の時代だから自分としては見応え充分でした。幾原監督の次回作がとても楽しみです。
個人的には桃果という女の子が一番の謎でしたが、眞悧がこの世に生まれ落ちた者を「呪う」存在で、桃果は「祝福」する存在のように思えました。
この作品に登場する少年少女達は、いずれも自分の命に代えても救いたい相手が存在します。 最終話でそれが冠葉と晶馬に凝縮された結果、彼らは消滅(?)し、「生存戦略」さながら子供を産む女である陽毬と苹果が生かされたのはとても興味深いです。
前話での桃果と眞悧の対決を、黄泉平坂でイザナミの「一日に千人を殺す」という呪いの言葉に、「ならば千五百人を産もう」と返したイザナギの説話を連想したのは私だけでしょうか。
もちろん、立場は男女逆転していますが。
これは全ての人にある力です。
誰にでも運命の乗り換えは出来る。
ただし、一度きり。
BLACK BLOOD BROTHERS
における吸血鬼になる、始祖になる。
それと同じだと思います。
人間には一度きり答えを出す権利が与えられている。
しかし、その答えが出た後はそれに縛られる。
たまに一つの作品以降、次まで長く休む漫画家がいますが多分それが答えが出たということだと思います。
答えを出した時からその人はどこにも行けなくなる。
その答えを突き詰めるだけの存在になっていく。
そして、一つの答えという形で不死の存在となる。
サネトシと同じ思いを持った人間が現れた時にその人間の内側に現れる。桃果も同じ。
二人とも元はただの人間。
でもその言葉、その人を知るもの、事件を知るものの心の中に宿る形で永遠と奇跡に等しい力を手に入れた。
でもそれは呪いでもある。
永遠にそういう存在として縛られるということ。
アーチャーではありませんが、「(自分にとって)意味のない殺戮も、意味のない平等も、意味のない幸福も拒んでも見せられた。守護者になった俺に意志などない、人間によって産み出され(描かれ)人間が作ってしまった罪の後始末をさせられるだけ。」
そういう存在になるほどの答えを手入れただけのただの人間。
それがサネトシと桃果ではないでしょうか。
それがサネトシのいうその身が焼かれ何も残せないという意味ではないでしょうか。
二人もまたそういう存在になってしまった。
永遠に二人で分け合う。
姿が変わろうと、名が変わろうと、二人で罰を受け続ける存在に。
次の運命の列車に乗ることができた二人の内に宿り。
見せつけられ続ける。
二人に与えられる罰を。
そして桃果はその役を二人とサネトシに押し付け勝手に眠りについた。
サネトシは永遠に運命の列車を見送り続けるはずです。
自分たちを縛り続ける世界を壊すために、自分は無理でも次の運命の列車に乗っている人間の中からは自分と同じ存在が生まれないように。
ただの偽善でも自分の起こせる奇跡で救える人がいるのならと列車を見送り続ける。
桃果とサネトシの力は人の心の奥底に残ることができるそんな存在になることで得られる力。でもそれは全ての人にできることで、全ての人にある力。そして、全ての人が受ける呪いであり、罰。
さっさと忘れられ眠りにつける奴もいれば、永遠に縛られる奴もいる。桃果もサネトシと同じ、もう次の世界に影響を及ぼせない、忘れられる存在、塵ひとつ残せない存在。永遠に幸せになんてなれないただ消えていくだけの存在。
勝ちも負けもなく、もう眠れるか、まだ眠らせてもらえないか、そういう存在が桃果とサネトシではないでしょうか。
ただもしかしたら桃果もまた「帽子の彼女」が宿っただけの存在でサネトシよりも格下だっただけなのかもしれませんが。
桃果は眠りにつけても「帽子の彼女」はサネトシ同様永遠に世界に縛りつけられその罰を受け続けているのかもしれませんが。
そうですね。特に考えなくても楽しんで見られるし、考える余地もある。映像は純粋にかっこいいし、芸術性も高い。素晴らしい作品だと思います。
■こにぃでさんコメントありがとうございます!
確かに難物でしたが、すべてを理解する必要はないと諦めることで、むしろわかりやすい作品だと思えるようになりました。
桃果と眞悧は、この世の善意と悪意の象徴で、これもわかりやすい二元論なのでしょう。イザナミとイザナギにもつながる、古典的なテーマですよね。
■野良猫さんコメントありがとうございます!
「誰にでも運命の乗り換えは出来る」というのは、面白い視点ですね。誰しも桃果になれるし、眞悧にもなれるのかもしれません。自分自身の”運命”において、自分が主人公なのだから。
2011年はTBなどでお世話になりました。2012年も、充実した年にしたいものです。
切れのよい理知的なレビュー、来年も楽しみにしています。
それでは、良いお年を。
理知的なレビュー、と言われると恥ずかしいですが、楽しんでいただけると幸いです。