1話で琢磨の目がいきなり見えるようになったときは、「盲目設定の意味ないじゃん」と思ったものでしたが、こんな展開が待ち受けていたとは。完全に意表を突かれましたが、今思えば伏線もありました。 H2O ~FOOTPRINTS IN THE SAND~ 第11話 「弘瀬」 のレビューです。
これまでの、目が見えていた日々の描写はなんだったのでしょうか。2つの可能性があります。
a: 目が見えていた楽しい毎日は、琢磨が作り出した(あるいは音羽の見せた)幻か妄想だった。
b: 目が見えていた現実はあったのだが、琢磨が心を閉ざしたことで、(誰かの力で)過去の現実が改変されて、最初から目が見えていないことになってしまった。
どちらとも取れるのですが、 僕は”b”だろうと思っています。アバンのモノローグがそのヒントではないかと。
その目は、死に囚われ、すべてを拒む時に暗闇とともに閉じられ、
生を思い、すべてを受け入れる時に開かれる。
その目で何を見るのか、何を選ぶのか、それは・・・
つまり、琢磨の心の状態によって、目が見えるか見えないかが決まるわけです。 琢磨の心の持ち方が「原因」で、目が見えるかどうかが「結果」だと言えます。 今回、琢磨が死に囚われたことが「原因」であり、その「結果」として目が見えなくなったので、前述の”a”だと辻褄が合わないのではないかと。原因と結果の順番からして、 琢磨の心が閉ざされる → 目が見えなくなる → 過去が改変される であるはずです。
逆に、1話で目が見えるようになったときも、過去が改変されて「琢磨は以前から目が見える」ことになっていたのでしょう。目が見えるようになった琢磨に対して、クラスメイトが何のリアクションもしないのが不自然でしたが、その理由はこれだと思えます。あれは伏線だったのかと。
と、ここまで書いておいてなんですが、、、”a”か”b”かということは、本質的には差が無いのかもしれません。琢磨が言ってましたが、周りのことが現実なのか、あるいは自分が作り出した幻なのかは、人間には区別がつかないのです。物理学的な観点で言えば、見分けがつかない(観測結果が同じ)ならば、それはつまり同じものだ、となります。 だとすれば、”a”も”b”も同じことです。
禅問答のようになってきたので、話題を変えます。 琢磨のトラウマは相当なものですね。 関係ないと理屈ではわかっているひなたを、我を忘れて殴ってしまうほどに。
線路に飛び込んだ時、母親は手まねきをしていましたが、琢磨はそんな母親に対する怒りと悲しみ、そして「手まねきに答えて一緒に死ぬべきだったんじゃないか」という悔恨にとらわれているのでしょう。それがあまりに強いので、その「現実」を受け入れられず、その一瞬を無限の夢のように、繰り返し見ているのでしょう。 音羽は、現実を受け入れなければ先には進めないことを、琢磨に伝えようとしていました。
でも琢磨は逆に、”母親が死んだ現実を受け入れない”方に振れてしまいました。ラストで、「僕が守る、母さんを」と言っていたように。
琢磨が守るべきは母親ではなく、惚れた女なんだ、ということに気づくのが、今の彼に必要なことでしょう。次回はいよいよ最終回ですが、ハッピーエンドになることを願っています。
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ということは、どちらにしても目は見えていなかったということでしょうか。だとすると、あのモノローグで言う「開かれる」というのは、「開いた気になる(実際は見えていない)」ということなのかな? だとしたら、あまり救いが無いですが・・・
もし琢磨の目は当初から見えていなくて、それ以外の事実は映像の通りだとすると、いろいろ無理はありそうです。けっこう一人で出歩いているし。はまじが男であることに気づいたり。
あるいは、実は目が見えていたけれど、周囲の人は気づいていなかったとか? それはそれで無理がある気がします。うーむ、、、
最初から目が見えて無かったってことになると琢磨が幻想を見ていたという結論でしか今までの話の説明が付かないですし、数箇所の伏線が隠されていたと知らされてもますます混乱するばかりです
僕も最後がハッピーエンドならそれでいいと思ってたんですけどまさかの精霊会議(笑)とかもう最後の二話は振り回されまくりでしたw
でもオープニングがよかったのでもう全部許します(←アホ
しばらく時間がたって、これはこれでアリなのかもとも思えてきました。アニメで”叙述トリック”をやったチャレンジ精神は、評価されるべきと思います。