キャプテン・フューチャーは、いわゆる”スペースオペラ”(宇宙活劇)の原点と言える作品の一つです。そして、僕のSF好きの原点とも言えるのですよ。図書館で児童向けのものを読んで、すごく面白かったので続きが読みたいと思い、ハヤカワ文庫で出ていた全20巻を集めました。初めて買った文庫本でもあります。
キャプテン・フューチャーの両親(ニュートン夫妻)は高名な科学者で、共同研究者のサイモン・ライトと共に月の研究所で暮らしてしていました。研究の助手として、ロボットのグラッグと、アンドロイドのオットーが作られ、さらに、ニュートン夫妻の間に子供が生まれます。
しかしある日、彼らの研究を狙う悪漢に襲われて、両親は殺されてしまいます。サイモンと二人の人造人間は、残された赤ん坊にできるだけの教育をすることにしました。サイモンは知力を、グラッグは体力を、オットーは体術を鍛え、文武両道の青年に育ったカーティスは、その能力を、人類のために使うことを決意します。
原作が書き始められたのは1940年代(第二次大戦中)なので、科学知識としては古く、太陽系の各惑星に原住民が住んでいたりしますが(ガス惑星である木星にも木星人がいたり)、それを割り引いても、様々な危機を知恵と勇気で切り抜けるキャプテン・フューチャーの活躍は、胸がすくものでした。野田昌宏さんによる名訳の力も大きいでしょう。
ジェンスたちが見ていたのは、キャプテン・フューチャーのアニメ版だと思われ、セリフから判断すると32話あたりですね。原作の『宇宙囚人船の反乱』のエピソードです
物語は、キャプテン・フューチャーたちが乗っていた囚人護送宇宙船が、事故で爆発するところから始まります。無人惑星に漂着したけれど、脱出するためには自力で宇宙船を作るしかない。キャプテンたちは、金属の精製や工具を作るところから、気の遠くなるような作業を進めていきます。
非協力的な囚人たちや、凶暴な現住生物に手を焼きつつ、宇宙船は完成するのですが、一つ問題がありました。エンジン(サイクロトロン)を安定させるにはカルシウムが必要で、それがその惑星には欠如していたのです。生物の骨にさえ含まれていない。ならばどうするか… というシーンをやっていました
で、本編ですが、”最初のアシストロイド”であるラウリィをフィーチャーした、いわゆる人造人間譚でした。人造人間譚とは、人間に似せて作られた機械の悲哀を語るものです。 実は、キャプテン・フューチャーにも、人造人間譚の要素があります。
グラッグとオットーはともに人造人間で、人間に強烈に憧れているんですね。そして二人は、どちらが人間らしいかということでいつも喧嘩しています。「このゴム人形が!」「なにをこの、屑鉄風情が!」という調子で。でも実は互いに大切に思っていて、片方が危機に陥ると、もう片方は矢も盾もたまらなくなるのですが。
「おいらは淋しいスペースマン」は、アニメでは随所で使われていたようですが、原作で使われたのはたぶん1回で、グラッグが歌うのです。「歌を歌うのは人間らしい」とオットーに自慢するシーンでした。
それをラウリィが歌うのは、二重の意味で感慨がありますね。宇宙をさすらうために作られた身の上を歌いつつ、歌うことで人間らしさを表現している、と。
エリスがラウリィを苦手そうにしていたのは、過去のこともあるけれど、本来はラウリィの主人が地球に一番乗りするはずだったのが、自分がその役をやってしまった、という後ろめたさがあるのでしょう。そんな繊細なところがあったとは意外です。
アシストロイドが言葉をしゃべれなくなった経緯も印象的でした。そういうことはあるかもしれないな。 人工知能の人権問題は、文明がいつか必ず突き当たるはずの壁で、SFの大きなテーマです。
この作品はSFマインドがあると以前から思っていましたが、単なるトレッキーとかでなく、筋金入りであることがわかりました。どの程度の視聴者がついてこれているかわかりませんが、僕はめいっぱい楽しんでいます。
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今回はOPがなかったので「これは本気でやってくる!」と思わず姿勢を正して見てしまいましたね。
正直先週の次回予告で~エーテルとか言い出した時は、今回、「~人は彼女をキャプテンクーネと呼ぶ」とアバンタイトルが始まるんじゃないかと思ってましたから。
「いだいなるさいしょのあしすとろいど」ということで、フォーカスライト(またはSSL、二ーヴ、インタシティ)とかいったあたりを思い浮かべつつ、「あ、キュアムーンライト!」とか騒いでみたりしながら、(すいません)相当に楽しみました。
あの歌は、キャプテン・フューチャーのあの世界で作られ、宇宙開拓史に思いを馳せるスペースマン達に好まれた流行歌、と勝手ながらそう解釈していましたので、ゴーハム・ジョンソンになれなかったご主人様を思う時、これはぴったりだったかなと。
でも今回一番ぐっと来たのは、以下のやり取り。
「しかし不思議です。地球人は外宇宙に出たことないんですよね?」
「なのに、宇宙を旅する人の心をここまで表現できるなんて、不思議ね。」
大元帥、聞こえましたか?
『キャプテン・フューチャー』ネタ良かったですね。メルクマールさんは何か書いてるだろうと思ったら盛大に取り上げておられてまさにGJです。
小学生の時にNHKのアニメ版は毎回楽しみに視聴していました。その後とくにSFファンになるわけでもなく、原作にも手を出しておりませんが、まさか深夜アニメでこの作品を思い出させられるとは。31年もたってねぇ。
改めて調べると今回キーになってる「おいらは淋しいスペースマン」を始め、音楽は大野雄二さんなんですよね。特に「ポプラ通りの家」っていうエンディングの歌が好きだったなぁ。
『あそびにいくヨ!』の原作は寡聞にして存じ上げないのですけど、『キャプテン・フューチャー』のネタは原作にも出てくるのですかね。アニメ版はもとより、古典として名高い原作を知る視聴者だって少ないだろうに思いきったことをします。沖縄の文物を大道具・小道具として丁寧に描いている(旅行ガイドに載ってる有名なものばかりですが)ので好感を持っていた『あそびにいくヨ!』ですけど、SF的な視点からも注目しなければいかんのかな、と思いました。
しかしまあ、オッサンがよろこぶネタを仕込んでくるアニメには困りますよ。いい意味で。
では股。
■コメット號さんコメントありがとうございます!
前回の予告から予期されていたとは凄い!「時は未来、ところは宇宙」はアニメのナレーションなんですね。
『エーテル』は懐かしい雰囲気があります。『特殊放射線』とかも。この作品は、そんな古き良きSFを、今に蘇らせてくれるかもしれません。
■しろさんコメントありがとうございます!
はじめまして! 「いだいなるさいしょの」は、アポロ11号のアームストロング船長の言葉からかなと思っていましたが、他に謂れがあるでしょうか。興味深いです。
ゴーハム・ジョンソン!と思わず膝を叩きましたよ。そうそう、あの”ご主人”のモデルはそれでしょうね。探検中に遭難したんでしたっけ。マーク・カルーという人もいました。そういう過去のスペースマンの犠牲の上に、フューチャーメンたちの時代があるのでした。キャーティアたちも同じですね。
野田大元帥は、宇宙活劇を愛し、宇宙開発を愛し、心はいつも宇宙にさまよわせていた人だから、あの歌詞に説得力があるのでしょうね。種族を超えて、時代を超えて、いつかあの歌が本当に宇宙で歌われるようになるかもしれません。きっとそうなると思えます。だから大元帥は生き続けます。
■雪中梅さんコメントありがとうございます!
このネタは取り上げざるをえませんよ! いくらでも書けてしまいそうなのを、必死にセーブしました。楽しんで頂けて嬉しいです。
作詞 野田昌宏、作曲 大野雄二って、贅沢な話ですよね。
このエピソードは原作にもあるようなので、がぜん原作を読みたくなりました。でも原作者だけでなく、アニメスタッフにもキャプテン・フューチャーへの愛を感じます。古い、ほとんど忘れられている作品だと思っていましたが、こうして生き続けているんだなぁと感動しました。僕にとって特別な作品であるだけに。
コメット号のワープってどんなんだっけ??
コメット号のワープは「振動ドライブ」だったかと。詳しくは思い出せませんけど。今回の話を見て懐かしくなり、amazonでサウンドトラックのCD買ってしまいました。
コメット号は、原作ではワープはありません。太陽系内が主な舞台ですからね。でもアニメは銀河系が舞台にアレンジされているので、ワープがあった気がします。
それとは別に、”振動ドライブ”という超光速航行があり、あるエピソードのために開発されます。ワープではなく、普通に光速を超える技術だったと思います。
アニメでは、十字型のアームみたいのが、光りながらぐるぐる回ってた気がします。
amazonでサントラ売ってるんですか!チェックしてみよう。
アニメのDVDは、残念ながら出ていないんですよね。フィルムが紛失したと聞いたことがあります。