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今回は九条美海と、その搭乗マキナのペインキラーを中心に書いてみようかなと。鉄のラインバレル 第8話 「戯れの鬼たち」 の感想です。

ペインキラーは『拠点防衛用』とのこと。ということは、航続距離や機動力は割り切って、攻撃力・防御力に偏重した設計を想像します。第二次大戦時のドイツの『駆逐戦車』みたいな。たとえば『エレファント(ティーガー駆逐戦車)』は、 重すぎるために時速十数キロしか出なくて、侵攻作戦には全く使えませんが、大火力と重装甲によって拠点防衛では大活躍しました。

ところが、ペインキラーはそういう性格では無いようですね。OHPによれば重量が48.7tということで、これはJUDAのマキナでは最も軽量なのでした。 ビーム砲を2つ持っていて、攻撃力はそれなりにありそうですが、防御力はたいしたことがなさそうです。今回も接近戦での弱さを露呈していました。

なので、拠点防衛の専用設計とは考えにくいです。性能的にJUDAの他のマキナよりも劣っていて、最前線では運用しにくいので、消極的に拠点防衛用にされているのかもしれません。ファクターである美海の性格が拠点防衛に向いているというのもあるのかもしれません。

ペインキラーとは『鎮痛剤』の意味ですが、なにか深い意味があるのでしょうか。実は回復魔法みたいな、まだ登場していない機能があるのかなとも思ったり。

美海はJUDAの中では常識人なキャラであり、面白みには欠けるかなと思っていたのですが、今回のラストの謎行動は良かったと思いますよ。真面目で落ち着いているように見える人が、パニックには弱かったりするものです。美海は自分を守ってくれた浩一のことを『ちょっとカッコ良かった』くらいには思っていて、感謝のついでにお近づきになろうという下心もアリで部屋を訪れたのでしょう。そこで絵美のあのシーンを見てパニックに陥ってしまい、でも真面目なので表面上は平静を保ちつつ、斜め上の行動に出てしまったんじゃないかなと。

美海は原作では一般人で、アニメは設定を変えてJUDA所属にしているそうですね。わざわざそうしたということは、サブヒロイン的な役目を与えられるのでしょうか。『普段は真面目なのに時々突飛な行動』というキャラでラブコメやってくれるのであれば、楽しみです。

今回の加藤機関の作戦は、スフィアとやらを設置することだったようですが、あれは他の平行世界とを繋ぐための扉のようなものでしょうか。「内部の空間が完全に閉鎖されている」という話から、そんなふうに思えますね。

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アバンがハチャメチャで「またかよ!」と思いましたが、本編はまったりしたお話。あかね色に染まる坂 第8話 「黄昏色のデザイア」 の感想です。

安直に『オーディションに合格してめでたし』の話にしなかったのは、良かったんじゃないかと思えます。そんなに簡単なものじゃないだろうし、そもそも何のオーディションだったのでしょうね。声優養成所などのオーディションだとしたら、受かったとしてもほんの入り口です。声優の養成所や専門学校の卒業生は年間1万人以上いるそうで、そこからメジャーになれる人が何人いるかと考えれば、最も「なるのが難しい」職業の一つかもしれません。

普段は賑やかし役のつかさが、繊細なところを見せるというギャップは良くて、それがほぼ全てだったと言えます。準一が好きなことを匂わせつつ、関係は何も進展しないのは、サブキャラなので仕方ないのでしょう。それにしても、何かフックに欠けた話でした。コメディシーンのテンポなどもいまいち。時々、よい回はあるんですけどね。次回はサブタイトルが「あかね色の~」なので、期待できるでしょうか。

スク水の話が異常に唐突で、無理に入れた感がありありでした。そもそもスク水ってそんなにいいですかね?僕は特にこだわりがなくて、むしろデザインとしてヤボったいと思うのですが。いろいろある水着のバリエーションとしてならば構わないのですが、近頃は水着といえばスク水という風潮であり、行き過ぎたスク水バブルに警鐘を鳴らしたいと思います。

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どんなに強力であっても、海賊が正規の軍隊と正面から戦うのは無理があるよなぁ。タイタニア 第7話 「流星の旗のもとに」 の感想です。

海賊が国家を超越した時代も、過去にはありました。例えばヴァイキングですね。彼らはヨーロッパ中を荒らしまわりましたが、特にイギリスは事実上ヴァイキングに占領されていて(ノルマン・コンクエスト)、今のイギリス王室や貴族はヴァイキングの末裔と言うことができます。でもそれが可能だったのは、当時のヨーロッパがいわゆる『中世の暗黒時代』で、政治も経済も軍隊もグダグダだったからでしょう。翻って流星旗軍の連中は、覇権の絶頂にあるタイタニアに対抗しようというのですから、ずいぶんハードルが高いと言えます。

要塞を占領することに成功したようですが、手薄な辺境の要塞を占領するのは難しくないのであって、難しいのはそれを維持することですよね。フォークランド紛争では、アルゼンチンはイギリス軍の守備するフォークランドをあっさりと占領しましたが、駆けつけてきたイギリスの先鋭部隊によってあっさり再占領されています。アルゼンチンのほうが地の利があり、兵力も多かったのに。そもそも海賊は拠点防衛が得意とは思えません。

ファン君が流星旗軍に加わることを辞退したのは、これらのことを百も承知だからでしょう。会議で反対意見を言っていたドクター・リー氏も同様です。でも主人公であるファン君としては、このまま傍観しているわけにも行かないでしょうから、次回どのように動くのが楽しみにしています。

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主人公たちが負け続けるバトル物というのも珍しい。夜桜四重奏 ~ヨザクラカルテット~ 第8話 「ソノトキヲ」 の感想です。

秋名たちは円神たちに一度も勝ったことが無いんですよね。相手は多少の攻撃を当てても平気みたいだし、秋名側はといえばアオの体に本気で攻撃する覚悟が無い。見ていて不甲斐ないという感情しか沸いてこないのでした。ここからカタルシスはあるのでしょうか。

八重の手助けも微妙ですね。土地神は手助けしないというルールを破ったようですが、バトル物は提示したルールは守るべきだと思うんですよ。破るならそれなりの説得力が必要で。かつ、いかにも中途半端な介入で、結果的にあまり意味がありませんでした。でも今回ルール違反を見せたことで、「次にピンチがあっても土神が助けてくれるんじゃないの?」と思ってしまうわけです。

原作の最初のほう(1巻と2巻の半分)を読んでみたのですが、かなりアニメと違いますね。秋名のお役目や、街の存在意義など基本的な設定が違うように(今のところ)見えます。なぜ変えたのでしょうか。

僕はこの作品は日常シーンが好きだから見ているのですが、今回のようにそれが無いと、楽しめなくて辛らつな感想になってしまいます。それにしても、アニメオリジナルストーリーをやるのは構わないのだけれど、せっかくのキャラを生かせていないという感は否めません。

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『妄想を現実にする能力(リアルブート)』の説明のために、この物語では量子力学を持ってきたようです。『CHAOS;HEAD』 第7話 「自覚-realization-」 の感想。

前回の記事で、拓巳たちの『妄想を現実にする能力』には3つの可能性(およびその複合)があると書きました。今回の説明では、基本は『実体化系』で、『精神操作系』もまじってる感じでしょうか。

基本的な原理は、集団的に妄想(幻覚)を見せる仕組みのようです。でも見せるだけでは映像にすぎず、存在はしません。しかし、その映像が現実と見分けがつかないくらいリアルで、しかもそれを観測可能な人全員が同じ状況として見たらどうでしょうか。それは限りなく「存在する」ということではないか。

セナは『ディラックの海』などの量子力学の言葉で説明していたので、『量子力学のコペンハーゲン解釈』が思い出されるわけです。量子力学によると、物質は量子レベルでは確率的にしか存在していません。存在するともしないともいえない、広がりを持つ状態なわけです。これが空間的に一点に収束することが『存在すること』なのですが、そのキッカケは『観測されること』であり、誰かが観測してはじめて、物質は空間に存在できる、というのがコペンハーゲン解釈です。

つまり「誰かが見るまでは物質は存在しない」ということで、常識的には奇妙な話です。量子力学の解釈のひとつにすぎませんが、こういう考え方もありえる、ということですね。

妄想を現実にするという『リアルブート』は、この原理を逆向きに利用しているというのが私の予想です。簡単に書くとこうなります。

妄想の映像を構成し、それを電磁波として放射する(ディソードやNOZOMIのリュックはそのための装置)

→電磁波が人間の脳に直接作用して、現実と区別がつかないような妄想を見せる

→同じ場所にいる人々が同じ妄想を『観測する』ことにより、量子が収束して妄想が実体化する


これまでほとんどセリフの無かった折原梢が、今回は堰を切ったようにしゃべっていました。テレパシーだけど。普段は無口でテレパシーだと饒舌、というのは面白いですね。無口なのは、あまり他人と親しくなると『心を読む』ことがバレて、気味悪がられるからでしょうか。転校してきたのもそのせいなのかな。拓巳がテレパシーを自然に受け入れてくれたことが、とても嬉しかったようでした。

物語は発散の限界点を越えたようです。ここから加速度的に収束に向かうのでしょうか。陰謀の首班が3人いるようですが、あれは政治家・宗教団体・大企業(NOZOMI)の代表っぽいですね。かなり最悪な組み合わせです。

飛び降りをしたあやせのことが気がかりです。彼女はセナほどは、自分の力や使命について分かっていないようですが、なぜそれぞれに理解度が違うのでしょうか。成り立ちが違うのでしょうか。『3人分のコードサンプル』というのが何なのか気になります。

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原作とはニュアンスの違う話になりました。原作は「有紀寧の救済の話」だと思うのですが、アニメはすっかり「有紀寧と朋也が町を二分する抗争を防いだ話」ですね。クラナド CLANNAD AFTER STORY 第8話 「勇気ある闘い」 の感想。

以下、原作との違いについて語っているので、原作ゲームのネタバレが微妙にあります。

 

原作で好きなポイントは2つあります。1つは、不良たちに一目置かれる存在である有紀寧が、朋也の前では無防備さを見せるところですね。「今日も膝枕、お願いできますか?」と甘えてくるのが萌えポイントでした。でもこれは、アニメでは渚と付き合っているのでやりにくかったのでしょう。

もう1つは、有紀寧が努力して兄の死を乗り越えるところです。兄が死んだとき、兄の世界を理解しなかったことを後悔した有紀寧は、兄の仲間たちに近づくのですが、最初は全く相手にされませんでした。でも差し入れをしたり、怪我の手当てをしたりするうちに、少しづつ仲間に入れてもらえるようになった。そしていつの間にか、自分にとっても大切な居場所になっていったと。これについてアニメでも有紀寧が語ってはいましたが、描写はあっさり目でした。ここがポイントではなかったのでしょう。有紀寧はすごく努力して、それに朋也や不良たちが少しだけ手助けをして、ついに彼女は兄の死の呪縛から救われたというお話でした。

アニメ化にあたって、せっかくアニメは動くのだから喧嘩シーンを迫力満点に描きたい。ゆえに不良の抗争話をメインにしよう、という狙いになったのだと想像します。確かに、痛さがリアルに伝わってくる喧嘩シーンは流石でした。原作そのままでなきゃヤダとは言いませんので、これはこれでアリ、とは思います。

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前回の『高い塔の女』と対になるような話ですね。美しいものを伝えようとした2人の間で、何が違っていたのか。キャシャーン sins 8話 「希望の賛歌」 感想です。

どちらも思いは同じのはずです。塔の女性は、美しい音色の鐘を作れば人々の心に届くはず、と考えました。でも、滅びの世界でモノにこだわったのが敗因でしょう。モノは滅びてしまうから、たとえそれが美しくても励みにはならないでしょうし、ましてや、滅びの世界で美しいモノを作るのは困難だったのです。

一方で、ジャニスは歌によって『魂の美しさ』を伝えようとしました。それは人々に届いたようです。

ジャニスの回想シーンに出てきた尼さんが、『天使にラブソングを』のウーピー・ゴールドバーグに見えて仕方ありませんでした。コメディですが名作ですよ。シスター・メアリー・ロバートには萌えます。それはともかく、この映画も歌の力によって人々に勇気を与えるというメッセージがあり、歌をテーマにした作品はみんなそうですね。確かに歌には力があるのでしょう。魂を伝達するプロトコルとして優れた実装なのでしょう。

余談なんですけど、英語の成句で"face the music"というのをご存知でしょうか。直訳では「音楽の方を向け」ですが、正しくは「(勇気を出して)困難と向き合え」です。由来については諸説あるようですが、"music"がそういう意味になるのは興味深い。ジャニスの歌を聴いた人々は、困難に向き合う勇気が得られたのでしょうか。

ラストの戦闘シーンは壮絶でした。キャシャーンは殺すために生まれた存在で、彼はそのことに苦しんできましたが、ジャニスを守るために戦ったことは、彼にとって救いになったことでしょう。しかしそれもまた失われて、キャシャーンは目的の無い旅に戻ったようです。彼に目的地はあるのでしょうか。

この物語に出てくる女性(型ロボット)は、みんないちいちエロいですね。まぁ、滅びゆく世界で、健康な男女がいれば、やることはひとつという気はしますけれども。終末世界が本質的に内包している淫靡さなのでしょう。

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サウダージとは、ポルトガル語で『郷愁』という意味だそうです。題名のとおり、ミチコの過去について語られ、ヒロシに本格的に迫っていく発端となる話でした。でも僕は、今回の主役はゼリア(孤児施設のおばさん)だと思っています。ミチコとハッチン 「愚か者たちのサウダージ」 の感想です。

『ドラマ』とは日本語では『劇』ですが、ドラマチックとか劇的とか言うように、なにか事件があり、それについて語られるのが『ドラマ』です。事件のためには何かの温度差(理系チックに言えばエントロピーの差)が必要であって、キャラクタの中にその温度差を作り出すことはよく行われます。『善人の中の悪意』とか、『悪人の中の善意』とか。ゼリアをめぐるドラマは後者でしょう。

今回、フジテレビでは2話連続放映であり、カッタルイなと思っていたのですが、ゼリアがテレビでインタビューされて、それを見たミチコが朗らかに笑うシーンで、今回も見てよかったと思いました。

ゼリアは子供を売り飛ばすという、かなり悪徳な行為をしていたけれど、子供の将来を心から案じてはいたのでしょう。子供時代のミチコに「私を信じろ」と言ったことは本心からだったのでしょう。

その時のミチコには信用できなかったけれど、自分の子供(のような存在)ができて、自分が同じセリフを言う立場になると、「こういうケースでのこういう言葉は本物だ」ということが理解できたようです。このあたりの直観はミチコの凄いところです。

ミチコがゼリアに激怒したのは、ゼリアを信じた自分に対する怒りでしょう。ゼリアのことが内心好きでもあったのでしょう。でもそれが裏切られてしまった。

それが、あのテレビのインタビューのシーンで逆転するわけです。この落差が爽快で、しかもハートウォーミングないい話だなぁと思ったのでした。

闘牛のシーンはややハチャメチャだったけれど、あれも『顛末をテレビを通してゼリアに見せる』ために必要だったのでしょう。面白い映像でもありましたし。ただし、僕は闘牛シーンは『トムとジェリー』しか比較対象がありません。

ミチコは、ケンカに強かったり弱かったりしますよね。おそらく『火事場のクソ力』を出すタイプで、相手に対して少しでも遠慮がある時には力を出せないのでしょう。だからゼリアにもあっさりやられてしまった。でもハッチンを守るためであれば滅法強いようです。ミチコが合わせ持つ『カッコ悪さとカッコ良さの温度差』が、だんだん好ましく思えてきました。

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大河が竜児を「犬」と呼ぶ時の意味が、変わりつつあるのでしょう。とらドラ! 第8話 「だれのため」 の感想です。

他人を貶めて、自分が優位に立とうとする人はいるものです。大河はそれとはちょっと違うけれど、不遜な態度を取ることで他人と距離を置こうとしているように見えます。臆病で自分に自信が無いのを隠そうとしているのでしょう。竜児に対しても犬呼ばわりすることで、対等な位置には置かないようにしたいのでしょう。同じ目線になって、弱い心の中を覗かれることを恐れているわけです。

でも今回の「犬」は、それとはちょっと違っているように聞こえました。2人で多くの時間を過ごしたことで、大河と竜児の間にはもう信頼関係が成立しており、大河は竜児を近づけることを恐れなくてもいいはずです。でも、そうすることが『照れくさい』というモードに入ったのでしょう。意識はしていないでしょうけれど。 これって恋ですね。

恋愛モノで主人公やヒロインが鈍感なのはよくある仕様で、そのコントラストとして脇役たちの勘が良いのもよくある仕様です。みのりや北村は2人の関係をよく分かっているようだし、母親の泰子さんは2人の理解者ですね。 この人たちは視聴者の分身として、今後も2人を見守ったり励ましたりする役目をするのでしょう。

亜美はどちらかといえば鈍感サイドに見えます。ゆえに彼女は脇役ではなくヒロインの資質があるのでしょう。
「狭いところが落ちつく」といって自販機の隙間に入っていましたが、彼女も他人と正対するのが怖いという点で大河と同類なのでしょうね。現象としては大河とは正反対に『愛想の良いキャラ』を演じているのですが。

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『検証できない弱い仮説』を重ねて説明するという、オカルトにありがちな手法ですが、話の持って行き方がうまいので楽しめました。魍魎の匣 第7話 「もうりょうの事」 感想です。

魍魎(もうりょう)とは何か、を1話丸々使って説明していましたね。要するに、

  • 影の周りにできる薄い影のことを『罔両( もうりょう)』と言う。
  • 追儀式は本来は魍魎を祓うための儀式で、矛を使って四隅を祓う。

ということを主な根拠に、「魍魎とは、あの世とこの世を分ける境界に沸く、なにか禍々しいものでは」と結論しています。京極堂氏も自分で認めているように、論としては弱いでしょう。でも、思いきり発散したように見えた話が、結論の1点にピッと収束するところが気持ちよくて、これがこの作家のうまさなのでしょう。発散の広がりが大きいほど、収束の落差が気持ちよいので、あの長い独演会が必要だったのでしょう。

鳥口が新情報をもたらして、さらに彼は「信者の喜捨を吊り上げるために御筥様が信者の娘を殺しているのではないか」という推理を披露していました。でも殺人はコストもかかればリスクも高いので、一般庶民の喜捨目当てでは収支が合わない気がします。京極堂が「それはどうかなぁ」と難色を示したのも、そういう理由なのかなと。あるいは彼は他に心当たりがあるのでしょうか。いずれにしても頼子は危なそうです。

アバンで何回か出た『匣の中の娘』が、物語に関わってきたのにも驚きました。というか、あれは関口ではなくて新人作家の作品だったのですね。あれが私小説だとしたら、あの作家は『匣の中の娘』を探して御筥様の信者になったのでしょうか。小説の話だと思っていたけれど現実も混じっているのか…

テトリスをやっていると、部屋の隙間が妙に気になって「あそこに何か埋めたい!」と思ったりしますよね。だからラストの朗読シーンで出てきた「隙間を埋めたい」気持ちはわかる気がします。魍魎が境界に沸くとしたら、それを根本的に防ぐには境界を取り払うか、みっちり埋めてしまうかしかないのでしょう。『匣(はこ)』はさながらテトリスのピースのように、隙間を埋めるために必要なのでしょうか。

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真実を隠したまま、仮面劇のように物語が進行していたのですが、今回で多くのことが明るみに出ました。ヴァンパイア騎士 Guilty 第7話 「茨の口づけ(キス)」 の感想です。

シスコンは身を滅ぼす、みたいな話が最近多いですが、妹とは、かくも危険な誘惑に満ちたものなのでしょうか。見果てぬ妹へのロマンを求めて、男達は旅に出るのでしょう。そこには屍が累々と積み重なっているというのに。

そんなことはどうでもよいのですが、やはり優姫争奪戦になるのですね。支葵は枢の伯父に乗っ取られており、本当の体が復活するには覚醒した優姫の血が必要なようです。そして枢はそれを阻止しようとしている。でも覚醒を遅らせるのは限界に達したのでしょう。

まだ謎なのは、枢と伯父の間にどんな確執があったのかということと、優姫の過去が封印されていたのは何のためか、ということです。この二つはたぶん繋がっているのでしょう。

とうとう優姫は吸血鬼になってしまいましたね。OP/EDの映像で暗示されていたとはいえ感慨があります。あるいは吸血鬼に戻った、と言うべきなのでしょうか。枢とは実の兄弟では無いようなので、元は吸血鬼では無かったのかもしれませんが、いずれにしても普通の人間では無いのでしょう。

枢は、クールさを装いながらも実際は激情家であり、優姫を守るためなら何でもする、というシンプルな行動原理で動いているようです。そんな枢を抑えるポジションにいるはずの一条は、枢に対して敵宣言をしてしまいました。彼は枢よりも広い視野で、学園や吸血鬼社会の平和について考えているはずで、彼の動きに注目かもしれません。これまでいまいちキャラが立ってなかったですけど。

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『群像劇』とはつまり、人間関係の『最適化問題』であり、いまはまだ『部分最適化』の状態なのでしょう。ef - a tale of melodies. 第7話 「reflection」 の感想です。

アニメレビューCrossChannel』さんが、 この物語の登場人物を『自己愛に満ちた嘘つきたち』と評していましたが、言いえて妙だと思いますね。みんな自分大好きで、基本的に自分が気持ちよくなる(傷つかない)ために行動しており、今回はそれを特に感じました。優子と天宮兄は言うまでもありませんが、火村もそうですね。優子の告白にショックを受けて、天宮兄のところにナイフを持って押しかけたけれど、兄を殺したら優子がどうなるかまでは考えていない。単に自分のショックを他人に転嫁するために、ああいう行動に出たわけです。安っぽい正義感というのは自己愛にすぎません。

久瀬も、人あたりのいい仮面を捨てて、ミズキを容赦なく傷つけていました。ミズキを遠ざけていたのは、ミズキのためというよりは、自分の覚悟を鈍らせて欲しくないからでしょう。自分が死んでも行き続ける存在への妬みもあるようです。

ミズキにしても、「また、あの夢を見そう」とか言っていて、なにかトラウマがあるようですが、自分が傷つきたくないから久瀬との関係を修復したいという思いが強いんじゃないでしょうか。

いわゆる『社会性』とは、自分をいくらか犠牲にして他人や集団のために行動することです。それにより人間関係や社会が良くなり、広い目で見れば自分のためになるわけです。こういうのを『全体最適化』と言います。個々が一番良くなることだけ考えている状態は『部分最適化』です。

群像劇とは、人間関係を『全体最適化』する過程を描くドラマなのでしょう。例えばefの1期で言えば、景にとっては紘に振られたので最適とは言えないですが、景が身を引いたことで、群像劇全体としては一番落ち着いた状態になったわけです。

2期は、まだ『部分最適化』の状態にはまっていて、みんなが『自分が傷つかないために他人を傷つけている』状態です。だから見ていて痛々しいのは仕方ないでしょう。ここからどうやって全体最適化に持っていくのかが勝負です。今は辛いですが、ここからがドラマの真骨頂なので期待したいと思います。なにか人間関係を揺さぶるような事件が必要だと思うのですが。最適化問題を数学的に解く場合、部分最適解に落ち込んだ状態から脱出するために、変数を揺らすのはよくやるテクニックで。

前回のレビューで、優子の告白は火村への『復讐』だろうと書いたのですが、今回優子の口から語られていましたね。ただ、僕はあのナイフは自殺するためだと思っていたのですが、天宮兄を殺すためでしたか。考えてみれば『自己愛に満ちて』いる人にとって、自殺は選択肢じゃないのでしょう。

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『オタク属性キャラの』の多用はどうなんだろうと。まかでみ・WAっしょい! 第7話 「ファッションショーなんですけど。」 の感想です。

『オタク属性キャラ』という用語があるか分かりませんが、らきすたのこなたのような、自身がアニメやゲームのオタクであるキャラのことを言っています。最近増えたように思えるのですが、どうでしょうか。

制作者としては、いろいろメリットがあるのでしょう。オタクの共感が得られるとか、オタクじゃない人の「オタクってそーなんだ」という興味が惹けるとか、エキセントリックな行動をストーリーの起点にしやすいとか、イジられキャラ・ボケキャラに向いているとか。ただし、やりすぎは禁物だと思えます。オタクの行動は普通の人にとってはウザかったりするし、オタクから見ても同属嫌悪を抱かせることがあるし、アニメキャラがアニメオタクというのはメタネタであり興ざめというケースもあります。

例えば『かんなぎ』はギリギリの線でしょうか。秋葉という真性のオタクがいて、オタクの素質があった貴子がそれに引きずられて、無垢なナギも影響されて、都合2名+αと。僕はこれくらいならいいかなと思いますが、これさえダメという方もいそうです。

で、この作品ですが、生徒以外の主要キャラ(教師・神族・魔族など)はほとんどみんなオタク属性キャラですよね。いくらなんでも多すぎかと。今回登場した2人の神様もオタクで、またかと思いました。”教師がオタク”、”神様がオタク”というのはギャップ狙いでしょうけれど、全員がそうだとギャップも何もないわけで。オタク属性キャラが動かしやすいのは分かるけれど、それしか引き出しが無いのかと思うわけですよ。

ではオタク向けに嬉しい内容なのかといえば、それも微妙な気が。新しい学園制服のコンペをするという美味しいシチュエーションなのですが、肝心の制服があまり可愛くなくて、そもそも制服をじっくり映したショットも無いので、そこを見せたかったわけではないのでしょう。では何がやりたかったのかな。ギャグもドタバタしてるだけで面白くないし。

このアニメ、1話の魔法の描写は面白そうに見えました。魔法とコンピュータの融合という感じで。(そういえば、トリンシアは仮想神格ということでコンピュータの中にしかいないと思ったのですが、実体もあったのですね…)
でもそのあたりや世界設定については掘り下げられることなく、ひたすら萌えやギャグをやっていて、しかもイマイチに見えます。方向性を失っているのではないでしょうか。この枠のファミ通文庫のアニメ化としては、『狂乱家族日記』がかなり面白かっただけに残念だなぁと。

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予想通り鬱展開になってきましたが、中でも、黄泉の中に神楽に対する嫉妬心が芽生えたようなのが気がかりです。喰霊-零- 第7話 「呵責連鎖 (かしゃくのれんさ)」 の感想です。

『嫉妬』は強力なネガティブ感情であり、嫉妬は人を狂わせます。『嫉妬の世界史』という本を読むと、嫉妬って怖いと思いますよ。黄泉は努力家肌であり、天才肌の神楽に嫉妬しているようですが、これはよくあるパターンです。先の本で言えば、石原莞爾と東条英機のケースですね。

石原莞爾は若い頃から陸軍内で才能を認められた天才で、満州国建国など華々しい成果を上げましたが、天才ゆえの傲慢さで敵も多かったようです。東条英機はコツコツ堅実にやるタイプであり、年下で傲慢なくせに出世の早い石原に嫉妬していました。なので、東条が軍の実権を握るやいなや、石原を左遷して干してしまったのでした。

これは日本にとって残念なことでした。石原莞爾の構想は、満州国を作ってソ連と日本との緩衝地帯にすることで、彼はそれを成功させました。ただし、中国本土と戦争するつもりは全くなく、東アジアを安定させることを本気で目指していたのです。でも彼は東条の嫉妬で左遷されてしまい、後を継いだ連中が勝手に中国と戦争を始めて、日本を泥沼に引きずり込んだのでした。嫉妬は歴史をも狂わせるというお話。

・・・という余談で埋めてしまいたくなるくらい、今回は見ていて辛い内容でした。黄泉と紀之との仲睦まじいシーンでさえ、なんだか悲しく見えてしまって。今後どういう方向なのでしょうか。救いは全く無いのでしょうか。

墓参りに、1話で主役?だったトオルとナツキが来ていました。彼らがどう関わるのかは気になるところです。まぁ死ぬんだけどね。

DVDのCMカッコいいな。特に曲が良くて、サントラに収録されるなら欲しいですが、単体のサントラは出ないっぽいですね。DVD 1巻の特典に付くようですが。

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今回良かったですよね。これまでで一番好きなエピソードかもしれない。このストーリーの道具立てとしての『脳量子波』や『超兵』について、考察していなかったので(今更ながら)やってみます。機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン 第7話 「再会と離別と」 の感想と考察です。

 『脳量子波』とはどういう能力か、ですが、ずばり『ニュータイプ』だと考えるとしっくり来ます。ガンダムですしね。ニュータイプにはいろんな定義があるようですが、Wikipediaには以下のようにあります。

ニュータイプは、一般に認識能力の拡大により人並みはずれた直感力と洞察力を身につけ、並外れた動物的直感と空間認識能力を持ち、独特のサイコウェーブを発する。また、離れていても他者やその状況を正確に認識し、意思疎通をする能力を発揮し、(後略)

ソーマやハレルヤの描写を見るかぎり、まさにそんな感じではないでしょうか。さらに 『脳量子波』の場合は、「能力者同士で、脳量子波が干渉して激しい頭痛を催すことがある」という特徴が加わるでしょう。 サイコミュのような遠隔操作能力があるかどうかは不明です。

『空間認識能力』というのが特にキモだと思っています。『星界の紋章』シリーズで言う『空識覚』ですね。空識覚とは、通常の五感に加えて、空間航行種族としてのアーヴに与えられた能力で、これのおかげでアーヴはレーダーなどが無くても周囲の状況を把握でき、さらに前頭葉にある『航行野』との連携により軌道計算などしなくて本能的に宇宙機を飛ばせるそうです。そのような能力があるとすれば、空間戦闘には非常に有用であり、『超兵』と名付けられて軍事利用されても無理はないでしょう。

この能力が、生まれつき五感を持たないマリーに最初に発現したというのが、興味深いところです。身体障害者の方が、失った能力を補うために別の能力が発達することはよく知られています。目が見えない方は、自分の足音の反響音を聞いて、壁までの距離が正確にわかったりするそうで。マリーは、感覚を持たないからこそ空間認識能力を発達させたのでしょう。そういえば、超能力テーマSFの金字塔である、スタージョンの『人間以上』も、能力者たちは皆、普通の人間としての能力を何か欠いた人たちでした。

アレルヤは、戦いで脳を傷つけたことにより、ハレルヤの人格とともに脳量子波を失ったように見えましたが、今回は発動したようです。まだ使えるということでしょうか。ソーマ改めマリーは、このまま平和な生活を送ることが本当に許されるのでしょうか。ガンダムシリーズにおけるニュータイプには、なかなか平和は訪れないことになっていますが。

それにしても、今回はスミルノフ大佐に尽きますね。男惚れするというのはああいう人でしょう。あまりくどくは説明されなかったけど、彼の心中を想像すると胸が熱くなるわけです。まさに武士(もののふ)であり、勘違い武士である乙女座の人とは一味違う。まぁ、彼は彼なりにイイんですけど。2人を見逃したことが発覚して、スミルノフ大佐の立場が悪くならないかが気がかりです。

00ガンダムは、トランザムを使ったとたんにオーバーロードしていましたね。GNドライブの同期については以前に考察しましたが、ああいう仕組みだとすると安定して制御するのは難度が高そうです。製品開発に携わったことのある方なら分かると思いますが、実験レベルで動くことと、製品レベルの信頼性で動くことは別次元で、「なんかなし動いたよ」では完成度20%くらいと考えるのが妥当です。ツインドライブの完成度を上げるのは先が長そうですが、なにかブレイクスルーがあったりするのでしょうか。

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新しい章が始まったわけですが、「もっと面白くてもいい筈なんだけど」という感覚は相変わらずです。とある魔術の禁書目録 第7話 「三沢塾(かがくすうはい)」  の感想。

錬金術とか吸血鬼殺しとか、面白そうな設定の話になったのですが、いまいちノレないのはテンポが悪いからでしょうか。まだ物語のほんの導入で、「アレ、ここで終わり?」と思ってしまいました。

『記憶を失ったことを知られてはならない』ということがサスペンスになっているわけですが、そもそもなぜ隠さないといけないんだっけ?と思ったり。ステイルが知らないのは意外でした。2週間分の記憶を失ったそうですが、友人のことまで忘れているのはなぜだろう

追記:
見返してみると、「俺には2週間より前の記憶が無い」と言っていました。生まれてからこれまでの出来事を全部忘れたという意味でしょうか? だったらずいぶん重大な障害で、生活そのものが困難になりそうですが。

久しぶりのインデックスとの日常シーンを楽しむのがメインなのでしょうけれど、今回のインデックスは、単にワガママな子供という感じでした。

ともあれ、先は気になっています。『三沢塾』と書いて『かがくすうはい』と読ませるわけですが、実際のところ錬金術と科学との境目はずっとあいまいでした。ニュートンが錬金術にハマっていたのは有名な話ですが、当時はそれほどの違和感は無かったのでしょう。劇中でも名前の出たパラケルススは錬金術師とされていますが、薬草などの民間療法を体系化して治療に活用したりなど、医学にも立派な業績を残しているのですよね。当時の正統派の(西洋)医術は、瀉血(悪い血を捨てる)がメインの科学的根拠に乏しいもので、むしろパラケルススのほうが科学的だったという。 まぁ、そんなウンチクは僕が語らずとも劇中でいろいろ出てくるのでしょう。楽しみにしておくことにします。

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コメディとしてほとんど完璧、ですね。かんなぎ 第7話 「キューティー大ピンチ!激辛ひつまぶしの逆襲(後篇)」 の感想です。

まずシチュエーションとして面白い。神様が怒って隠れるというのは『天の岩戸』を思わせ、押入れの前に人が続々増えていくところがなんとも可笑しいです。御厨がナギを怒らせた原因は何かというサスペンスがあり、エッチっぽく思わせておいて実は下らない理由だった、というのは定番のオチだけれど丁寧にやっていますね。

レギュラーキャラをほぼ全員登場させて、それぞれが持ち味を出しています。特に貴子さんが今回もいい味出していました。会話のノリも良いですね。

ざんげちゃんが御厨を『演技で』誘惑するという、ラブコメ要素も押さえていました。ナギ視点で、見えそうで見えない感じもエッチっぽくて良い。

ロリっ子キューティーの劇中劇はいわゆるパロディ要素で、がんばってるのは分かるけどなんだか微妙だなと思っていたら、それを見ていたナギも微妙な顔をしてたのに笑ってしまいました。わざと微妙に作ったのね。パロディのパロディという感じでしょうか。

まぁ、なにやら理屈っぽく書きましたけど、要するに「面白かった!」ということで。ただ、かんなぎをBDでも出せよとは思います。イッツアソニー。

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当ブログは一応SF考察をウリにしているので、『高蓋然性世界』という面白そうな用語が出てきたからには考察せずにはいられないのでした。好きな方はお付き合いください。鉄のラインバレル 第7話 「サイアクな放課後」の感想と考察です。

『蓋然性』とは『確率が高い』くらいの意味ですよね。ニュアンスは微妙に違うのかもしれませんが。となると高蓋然性世界とは『確率がすごく高い世界』となり、これだけでは意味がわかりません。

でも、パラレルワールドのようなものに『確率』がからんでくるとなると、量子力学での『多世界解釈』が想起されるわけです。おなじみシュレディンガーの猫で説明しますが、ご存じないかたのために軽く解説しておきます。(あまり正確ではありません)

シュレディンガーの猫
中の見えない箱に猫を入れ、その中に一定確率で崩壊する量子と、崩壊を検出したらガスで猫を殺す仕掛けを入れておきます。
量子力学の世界では、量子が崩壊したかどうかは、誰かが『観測』しなければ決定しないことになっています。観測するまでは、崩壊した状態としていない状態が重なり合っている(確率的な)状態とされます。
ということは猫も、”生きている”と”死んでいる”が重なり合った状態であり、誰かが箱を開けて見た瞬間にどちらかに収束する、ということになるわけです。

常識的に考えれば、これは奇妙な話です。人間が見ようが見まいが、猫の生死は箱を開けるよりも前に決まっていたはずですから。でも量子力学の不確定性原理をあてはめるとこうなってしまうという、困った問題とされています。あと、観測って何なのよ、というのも問題です。フォン・ノイマンは『意識のある存在が観察すること』といいましたが、物理現象に意識が関係あるのかよと。

これを解決する考え方として『多世界解釈』があります。箱のふたを閉じた瞬間に、『猫が生き残る世界』と『猫が死ぬ世界』に分岐する、と考えるわけです。これならば上に書いた矛盾は起こらないかもしれませんが、世界が無限に分岐し続けることになり、それもどうなんだろうという疑問は起こります。

無限の世界があったとしても、それを観測する人がいなければ存在しないも同然なので、『観測の数だけ世界がある』と考えることもできます。これはこれでもっともらしいですが、観測とは何か、の問題はつきまといます。結局、一般的な解釈(観察するまでは猫が確率的に存在)と同じことを言ってるようにも思えます。

というか、「意識ある観察によって存在する世界」というのはつまり「想像の産物」とどこが違うのでしょうか。ここで、加藤の言葉が思い出されるわけです。「想像せよ。それだけが、来るべき時代を生き抜く唯一の手段なのだ」と。ということは、たくさんある平行世界の中で、想像力によって存在確率を高めた(蓋然性のある)世界、それが『高蓋然性世界』なのかもしれません。

あのアタッシュケースも、『シュレディンガーの猫』的なものの比喩かもしれません。開けてみるまでは分からない。口に入れて見るまでは分からない。でも想像力があれば自分で決めることができる、、、ということ?

まぁ、僕の想像の産物なんですけどね。


話は変わって。浩一は矢島を失ったけれど、道明寺という良い友人を得たようです。「何がキッカケで分かりあったのか全然分からない」と絵美は言いましたが、僕はよくわかりますよ。両方とも『正義の味方』や『秘密基地』といった設定に夢中になれる、中学生としては少々幼いメンタリティーの持ち主であり、そんな同類であることを互いに直感したからでしょう。矢島は対照的という意味でよい友人でしたが、道明寺は浩一の同志になってくれそうです。二人のテンションにヤケクソで付き合う理沙子や、付いていけないのに巻き込まれている絵美の様子も面白い。いい脇役たちになってるでしょう。いろいろ面白くなってきたと思います。

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「そもそもパロディとは和歌の”本歌取り”に始まり・・・」などと冬彦ばりの解説をするつもりは無いですが、パロディもほどほどにと思います。あかね色に染まる坂 第7話 「鋼色のフェスティバル」 の感想。

文化祭の模擬店をめぐるドタバタは、アニメやギャルゲーにありがちなシチュエーションを一切のヒネリ無くなぞっていて、つまりパロディなのでしょう。それと平行して、エヴァ+スパロボ+何か のパロディをやっていました。メインのストーリーがあり、それのスパイスとしてパロディをやるなら悪くないと思うのですが、全編パロディというのはどうなんだろうと思います。しかも洗練されていない。 ロボが登場するのはOPでバレてるので意外性も無く。

ラスト付近は良かったんですけど。優姫の照れっぷりと切れのいいパンチが良いです。ああいうラブコメを普通にやってくれればいいのにと思います。

このアニメ、サブタイトルに「あかね色の~」と付く回は普通にラブコメで面白く、それ以外の「山吹色の~」などはハチャメチャで面白くないという法則があるようです。次回は「黄昏色の~」とのことでダメパターンですが、予告を見る限りではラブコメっぽいので期待しておくことにします。

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会戦そのものはあっけなかったですが、テュランジアの無能さとタイタニアの有能さを、鮮明に描きたかったということでしょう。タイタニア 第6話 「シラクサ星域会戦」 の感想です。

タイタニアに反旗を翻したからには、当然、周辺国との根回しも完了していて、反タイタニアの一斉蜂起をする準備が出来ていると思っていたのですが、そうではありませんでした。タイタニアの強硬姿勢に焦って、慌てて周辺国の協力をとりつけに走る始末。ちょっと考えられないような無能ぶりですが、『組織』ではこういうことはありえます。

ありえないような愚かな決定を、優秀な人がいるはずの『組織』が行ってしまうことはよくあるものです。日本政府や役所を見ていればわかりますし、会社や学校でも、組織が大きくなるとありがちなはず。『組織』というものはうまく運営しないと、とめどなくダメになり得るのです。

テュランジアの様子を見ると、三人のリーダー格がいて、特に誰がトップというのは無さそうです。これだけでもダメっぽい組織ですね。あの三人の背後にはぞれぞれの派閥があって、その間の根回しとか調整とか妥協とか紆余曲折を経て、意思決定が為されるのでしょう。そうして決まったものは、当初の目的を見失った意味不明なものになりがちで、しかも誰も責任を取らないということになります。老化して動脈硬化した組織です。

一方でタイタニア側は、アジュマーン藩王を頂点にしたシンプルで効率のよい組織のようです。4公爵は競い合って切磋琢磨していますが、、少なくともアリアバートとジュスランの間には横の連携がしっかりあり、アイデアを授けたりそれを受け入れたりする柔軟性もあります。実にステキ組織です。タイタニアにも長い歴史があるのに、こんな若々しい組織でいられるのは奇跡的と思えますが、厳しい実力主義の専制国家だから、というのはあるのでしょう。

しかし戦闘になると、些細なことでも戦況はひっくり返ります。テュランジア側にも一瞬だけチャンスがありました。ワイゲルト砲は威力絶大でしたが、アリアバート艦隊はその運用に不慣れだったのか、斉射後に陣形の乱れがあったようです。ワイズ中佐はそれを目ざとく見つけました。「最も大きな危険は勝利の瞬間にある」とナポレオンも言いましたが、『攻撃の限界点』を狙って反撃するのはセオリーです。

しかしテュランジア首脳部は、ワイゲルト砲の被害にパニックに陥っており、ワイズ中佐の進言を受け入れることはできませんでした。クラウゼヴィッツは「戦場は常に混乱しており、より混乱が少ないほうが勝つ」と言いました。アリアバート側も混乱していたが、テュランジア側のほうがさらに混乱していたということですね。

『暴虐な支配者 対 反乱勢力』という図式だけ見ると、支配者側が旧弊な体制で、反乱勢力が清新な組織、という印象を持ちますが、今回の話は、そんな単純な図式では無いことを示したいのでしょう。タイタニアのおかげでダメ組織が一掃されたとも言えます。でもそれが道義的に良いことなのかは別問題であり、この図式は銀河英雄伝説とも共通していますね。

ファン・ヒューリック君は今のところ、これといった信念の無い人のように見えるので、『民主主義の守護者』たる信念の塊だったヤン・ウェンリーのようには振舞わないでしょう。彼がどのように歴史に関わるのか楽しみです。

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